森山大道展に行く


 うーん、眠れない(現在午前2時)。写真を見て、そして後からじわじわとテンションが上がってくる感覚。これは、ひょっとしたら初めてかもしれない。いや、テンションが上がってくるというのも少し違うような気がする。情緒不安定というのに少し近いかもしれない。いや、それも違うような・・・。ともあれ、そういったいろんなものが入り混じった、名状しがたい状態でお届けします、2ヶ月ぶりの更新は、現在東京都写真美術館で開催中の森山大道展について。写真展詳細はこちらで。

 今回は2フロアぶち抜きで開催という気合いの入った展示で、3Fが「レトロスペクティブ」すなわち回顧展、2Fが「ハワイ」という新作、という構成になっている。

 3Fの回顧展は、幅広く見渡せるという意味では良心を感じたけれども、残念ながらプリントが小さすぎた(特に前半)。空いているときに行ければまだ良いけれども、土日の昼間は結構大変なんじゃないかと思う(プリントが小さいと鑑賞距離が狭まるので・・・)。土日の朝ないし木金の夜(木金のみ20時まで)に行ったほうがいいかもしれない。

 個人的に最もズシっときたのが、80年代に撮られた「光と影」の一連の写真群だった。いくばくかの逡巡が写真のなかに入り込んでいるが、それを打ち消すような確信がそこにはあった。

 ここで、逡巡と確信という曖昧な言語しか出てこないのは、それが見たときの素朴な感想だったからである。しかしここが最も今回の写真展における、ぼくにとって大切なところだから、少し批評家・清水穣の言葉を借りたい(清水穣著「白と黒で」より引用)。なお、一般的に言えば、「光と影」は、森山が「スランプから抜け出すことができた」とされている(パンフレットより引用)写真群である。
 写真は、・・・光の記憶を未来へ向けて解放するリアルな行為となった。写真とは「事物は過去のエッセンスを保っていた、そのエッセンスを事物は未来で再び我々に味わうように促している、そんなコミュニケーション」(プルースト)である。(125p)(中略)
 写真を見ること、すなわちその写真のなかに含まれた世界と交流することは、写真を見る各個人の自己の再生であるはずである。記憶そのものは非人称的であり、写真を見るときに、我々はそのつど固体化され新たに再生される。森山大道は、伝統的な写真のリアリズムから離れ、写すものと見る者をまきこんだ再生のリアリズムを見出した。(130p)
 ぼくはこれらの言葉でかなりの部分得心がいった。前後の文脈も読めばより入り込んでいけること請け合いなので、興味のある方には一読をお勧めしたい。

 さて、ぼくの未熟な言葉であるところの「逡巡」とは、先の引用の文脈でいえば、写真の本質とは何か、という70年代の切迫した状況の発露であろうし、「確信」とは、上記にいう「再生のリアリズム」であろう。「光と影」は、これらがどろどろに混在した写真であり、ぼくがそこに自らのあらゆる意味での未熟性をオーバーラップさせたことから(僭越極まるが!)、ぼくは強いインパクトを受けたのだ。

 その後の90年代〜新作の写真は、上記のような意味からは安心して見ることのできるものだった(「新宿」が少なかったのが残念、「ブエノスアイレス」はあまり見てなかったので見られて良かった)。

 さて、今回の写真展は3回の対論が設けられており、1回目が森山大道×大竹伸朗(美術家)進行:笠原美智子東京都写真美術館学芸員)、2回目が森山大道×多木浩二(美術・写真評論家)進行:清水穣(同志社大学教授)、3回目が森山大道×金平茂紀(TBSテレビ報道局長) 進行:岡部友子(東京都写真美術館学芸員)、というものであった。実は先週金曜の1回目を見に行きたくて午後3時くらいに行ってみたらチケットはあっさり無くなっていて悔しい思いをしたが、今日(3回目)駄目もとで行ってみたら取れてしまった。ということでこちらについても少し触れておきたい。

 テーマは「報道と森山大道」とでもいうべきもので、その共通点と相違点を探る、みたいな感じで進んでいきそうだったものの、それについてはあっさり終わってしまい、その後の対論は見事に迷走してしまっていた。金平氏は自分の考え方を通そうとする気があるようで、しきりに「森山さんはTV的ジャーナリズムを敵視してるんじゃないか?」という意見を本人に向かって何度もぶつけてしまっていた(本人が違うって言ってるのに・・・)。自分の意見を持つのは結構だと思うが、聴衆は森山大道の言葉を聞きに来ているのだから、もう少し本人の言を引き出すような視点が欲しかった。途中で退席している人も何人かいたが、むべなるかな、である。しかも途中で、森山大道のドキュメントを撮ったというTBSの人と放送談義に花を咲かせるという迷走を超えた脱線を見せられてしまい、これには全く閉口するしかなかった。

 一ついいところがあったのは、「森山大道」の神格化についてどう思うか、という質問であったが、本人は飄々とかわしていた(笑)。まあ、これは本人がどうこう言う問題でもないか・・・。この点について私の思うところによれば、森山大道の写真を「見て」いるのであれば森山大道を神格化することは起こり得ない、というものであるが、いかがだろうか。これを具体化すれば以下のように言えるかもしれない。今回、対談中に、舞鶴の殺害事件における被害者が被害に遭う直前に撮った写メールについて話題となったのだが、その写真は「深夜の工事現場の赤色燈」であり、「人のいない教室を無造作に撮ったもの」だった。これらの写真はいずれも、「写真のなかに含まれた世界と交流すること」により、「写真を見る各個人の自己の再生」を生ずるもの―ここで平たくいえば、極限的な孤独感とも言えるだろうか?―だった。すなわち、我々は写真を見るとき、「写真の『多重性』のなかへ織り込まれていく」(同書131p)のであって、それは必ずしも森山大道の写真でなければならないというのではないのだ。もちろん森山大道の研ぎ澄まされた感覚から産み出される写真は見る者に大きなインパクトを残すが、我々はそれ以外の写真からでも「自己の再生」を見ることが可能なのである。そのような意味で森山大道の写真を捉えれば、神格化することには繋がらないのではなかろうか。

 与太話が過ぎたが、3時に行って8時までみっちり森山漬けになってきたので言葉が溢れて止まらないのである。とはいえ少し落ち着いてきた(現在3時40分)ので、そろそろ寝てみようかな(笑

<追伸>
 写真展は6月29日まで、2Fと3Fのセット券で1100円(アトレカードがあれば団体料金の880円)、極めて良心的な価格設定です。今年最も目玉の写真展でしょう。文句無くお勧め。

白と黒で―写真と…

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