「音楽入門」(著:伊福部昭)


音楽入門―音楽鑑賞の立場

音楽入門―音楽鑑賞の立場

 金曜日23時に近いというのに、学校からお届けしております。休憩がてら、GABA食べながら(←ヤバい)一部読んでみました。

 目を引いたのは、10章「現代生活と音楽」。

 著者は、現代生活における音楽を「現代では音楽とは、なんらの精神的準備もないところに、突然現れるのが、極めて普通なこととなったのです」という切り口で提示し、その問題点について「このような状態では、私たちはもはや、音楽を精神の糧として受け取る態度を持することができなくなるのです」と明快に指摘する。例として、テレビ・映画のBGM、カーステレオなどが挙がっており、これらを「音楽を音楽として受け取ることのできない明瞭な証拠」という。

 確かに自分を振り返ってみても、最近音楽を流し聴きすることが多い。行き帰りの電車の中など、音楽でも何か鳴っていないとあの混雑に耐えられようもない。また、勉強が煮詰まったときも、ハードディスクに入れてある適当な曲を流し聞きすることでストレスを発散しようとしてみたり。しかし、発散した気になっていたけれども、実際はどうだっただろうか。よくよく考えてみると、その効果は非常に怪しいように思える。

 氏は、重ねて「強制的にこのように習慣づけられた耳を、再び音楽を理解する耳にすることは、かなり困難なことなのです」という。「音楽を理解する耳」とは、同文にいう「音楽を精神の糧として受け取る態度」に他ならない。精神的・体力的に余裕の無いときは、そのような態度をもって音楽に接することが難しい。最近は、演奏会やオケの練習のときくらいしかそういう機会をもっていない気がする・・・。

 そんな現状をどうすればよいか。

 氏は、処方箋として
「あまりに多い音楽から逃れることです」*1
 という。

 ・・・単純でありながら様々な洞察を含んだこの言葉、あまりにも重い。脱帽。



*1:この文は以下のようにつながる。「選ばれた作品を時々聴く方が毎日音を聴くよりも音楽について知ることができるかもしれません」