ブラームス1番/角岳史指揮・品川区民管弦楽団(LIVE)


 こんなに心がざわめくのは久し振りだ。少なくとも、数年振りかというレベル。

 何にざわめくのか。つい先ほどまで持て余していたその感情が、ようやく見えてきたので、忘れないうちに記しておくことにする。

 今日のコンサートは1曲目がメンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」、2曲目がリヒャルト・シュトラウス交響詩ドン・ファン」、メインがブラームス交響曲1番。

 ルイ・ブラスでは、弦の重めの響きが、ゲネプロで力を入れたであろうブラームスの影響を感じさせたものの、アンサンブルも個人の技量も良かった(演奏後に聞いたら、やっぱりゲネプロブラームスが最後だったそうで)。ドン・ファンも超難曲なのにかなりの高次元でまとめていた。

 しかし、メインのブラームスで、私の中に制御不能の感情が、まさに夏の夕暮れに暗雲が立ちこめていくように、ゆっくり広がっていった。

 冒頭のテンポは早い。そして全体的に早い。それだけなら、過去様々な指揮者のアプローチで試みられてきたところであるし、近年の流行りである、全体の見通し重視の早めテンポかと思えば、納得もいく。しかし、このブラームスは、圧倒的に違和感があった。不明な私がそれに気付き始めたのは4楽章も半ばになってから。

 それは・・・・「フレーズの揺れがほとんどない」のだ。つまり、あるフレーズがあったとしたら、それは全く等価なテンポで演奏されていく。もちろん、要所要所でテンポは切り替わるので、一見すると違和感を感じない。しかしそれは、オケが、ブラームスのデリケートな響きをしっかり表現しており(特に音のバランスは神懸っていた)、アンサンブルにもほとんど乱れがなかったことから、非常にうまく糊塗されていたに過ぎない。何故指揮者はこのような演奏を選択したのだろう?

 その理由を考えることは全く空想の世界になってしまうが、単純に「好み」というだけではあれだけ単純化した演奏にはならないような気がする。指揮者の能力は高く、特に響きのバランスを取る力は凄く高いのも疑問に拍車をかける。

 私が考えるに、テンポが早いのは全体の見通しを良くするため(先述)。そして、テンポを動かさないのは、アマチュアでは(下手なプロでも)とかくズレやすい縦の線を合わせることで、すっきりしたブラームスを目指したのではないかと思う。

 ところが、これではすっきりクールな演奏を通り越して、ミネラルの全く含まれない精製水のようなまずさが出てきてしまうと思う。そのまずさは、時々現出するアンサンブルの乱れによく現れている。すなわち、イン・テンポで演奏することに慣れているが故に、あるセクションがそこからズレると他のセクションが狼狽するのが手に取るように分かるのだ。非常に力のあるオーケストラだから、耳を使って聴いていたら大幅なズレは出ないもの。もちろんズレはすぐ収まし、ズレの数としてもほとんど無いのだけど、その数少ないズレ方がちょっと変なのだ。すごく上手いオケが一瞬だけ中学校のオケのようになる瞬間がいくつかある、という感じ。これは普通ではありえないことではないか?

 オーケストラ全体でテンポを揺らすのは、確かに、アマチュアには最も難しいことのひとつだ。しかし、それを放棄してどうする?(←勿論、断言はできないが・・・)今日感じた違和感は、そこに集約される。

 たしかに、テンポを揺らしてフレーズを歌い込むと、オケがズレる原因になることもあるだろう。ゆっくり演奏したら、フレーズの見通しが悪くなって、濃霧の中を車で走るような演奏になってしまうこともあるだろう。

 しかし、「フレーズを歌い込んだり、ゆっくり演奏すること」と「オケのズレ・全体の見通し」が相反するものでない、ということはチェリビダッケがその人生を賭して挑んだ命題ではなかったのか?

 いくら整然とした音楽であっても、音ひとつひとつの必然性や、フレーズから溢れてくる感情などを置き忘れることは、決してあってはならない。そこに残るのは単に構築された和音の推移にすぎず、到底音楽とは呼べないシロモノである。

 今日はまだ眠れそうにない。チェリのブラームス4番でも聴いてみようかな・・・。5月28日、大井町きゅりあんにて。1000円。