深夜コンビニ規制論の蒙昧さについて


 深夜コンビニ規制の問題は、今世紀の大きな論点を含んだ問題です。京都市長の何某曰く、深夜型のライフスタイルが好ましくないから規制する、と。この立場の言を新聞で見たとき、慄然としたのをよく覚えています。

 最近、この問題について、中立・クールによくまとまっている記事を見ることができたので、リンクしておきます。(→NIKKEI NET プロの視点(石鍋仁美*1)ぼくの思うところはほとんどこの記事がいうところと一緒ですが、いくつか付言をしてみると、以下のようになります。

 ここでいう今世紀の大きな論点というのは、「他者への寛容」を如何に考えるかです。京都市長の言は、環境論から幸福論にすりかわっているところが既に気持ち悪いですが、そこは別の問題として、ここでの問題は、深夜にコンビニを利用しないライフスタイルを公の機関たる「長」が押し付けていいのか、というところです。彼等のいうところは、自由を推し進めた結果が現在の閉塞感を生んでいるからある程度みんなで生き方合わせましょうね、ということでしょう。しかし、これはただの逆行・退行です。仮に現在の閉塞感が自由によってもたらされたとしても(たとえば岩井克人の言「貨幣は人間に自由を与える。ただ、自由は必ずしも人を幸せにしない」など)、それを退行によって克服するということは、自由の利点すらも失うことになるのは自明でしょう。果たして彼等はムラ社会に戻りたいのでしょうか?ぼくは絶対にいやです。自由の弊害は、人間の叡智によって克服されるべき課題ではあれど、自由を否定する理由にはならないというべきです。そもそも、自由の弊害として現在の状況が起こっているのかどうかすら、明らかではないのです。

 彼等は、苛立っているのかもしれません。何によって閉塞がもたらされたのか分からないからです。秋葉原事件の件でも当初浅薄なオタク叩きが起こったことと同じで、理由の分からない問題(ここでは治安悪化や、あるいは漠然とした社会不安でしょうか)が出ると適当なところに解を作って納得したふりをしているように見えます。

 さて、では「他者への寛容」が現状を解決するのでしょうか。結論から言えば、それはまだ分かりません。しかし、ここである例を思い出したのでひいておきます(ビデオニュース社のストリーミング放送「マル激トーク・オン・ディマンド」宮台真司神保哲生こちらで)。ここでは、「ノイズ耐性」というキーワードを中心として語られています。すなわち、現在の鉄道ラッシュは2〜30年前に比して格段に楽になったはずなのに、車内の雰囲気は圧倒的に殺伐としている、その原因を、現代人の「ノイズ耐性」が弱体化したことに求めているのです。「ノイズ耐性」とは、一言で言えば、自分の思い通りにならない他人への寛容性をいいます。そして、現代の住宅において個室化が進んだことによりノイズ耐性が弱体化し、狭い車内に他人と押し込められることに大きなストレスを感じるようになった、というのです(放送では多数具体例が挙げられているので是非見てみて下さい)。

 ここでいう「ノイズ耐性」というワードは必ずしも「他者への寛容」と同義ではなく、包摂される程度の意味合いだと思うのですが、ここで、両語は現代を読み解く一つの重要な示唆を与えてくれるように思うのです。現在の閉塞感は敢えて言葉にすれば、「他人が何を考えているのか分からない」というふうにもいえると思うのですが*2、構成員が自我を開放した社会において、共存のルールはどうあるべきか、他者への尊重は実現できるのか。こういったことを具体的に考えることが、閉塞を打破する唯一の道であると思います。決して、前時代に戻ることによっては解決されません。やるのは勝手ですが、そういった価値観を持つ人たちだけでやっていただいて、かつ、都市部でやらないで欲しいと思います。特に東京は人類の歴史上最大の規模(約3400万人)を誇る超・大都市であり(→参考・ACTIVE GALATIC「歴史上の世界最大都市のまとめ:氷河期の終わりから現代の東京まで」)、まさに時代の最先端を行っている状態なのです。人類社会の新しい姿を最初に形にできるかもしれないとすら思います(笑)、退行なんてもったいない!

*1:日経編集委員。やっぱり日経はこういう人がいるから凄いな、と思います。

*2:たとえばぼくの住む新興住宅街でも、マンション内住人の疑心暗鬼はもうひどいものです