写真の信用性

写真は信用性を失っていると言われる。スナップでもドキュメントでも、ヤラセの存在はとうの昔に明らかではある。では、スナップやドキュメントがその存在理由を失ったかというと、そうではないだろう。しかし、積極的な存在理由があるだろうか?この長年の疑問に対するヒントが、戦後写真史ノート/飯沢耕太郎著にあった。写真論として手軽にまとまっているので、最初の一冊にいいと思う。
その著作の中で飯沢氏は、写真の信用性に見切りを付け虚構から作品を構築する向き(美術一般と同じように、無から有を産み出すといえば分かりやすいか)があることに言及し、次のように疑問を投げる。

しかし、コントロ−ル不可能な何物か−手に負えない現実世界−を相手にして、その相互作用を作品のなかに取り込んでいくときにこそ、写真はそのメディアの特性を最もよく発揮することができるだろう。(中略)失われたリアリティの根拠は、”真実”や”問題意識”をでっちあげるのではなく、現実世界を前にした写真家ひとりひとりの厚みと手触りを備えた経験に求められなければならない。

以上のことは奇しくも、土門拳の言う写真スランプの解決法に似ている。即ち、①自分の思想の行き詰まり②自分の表現技術の行き詰まり③両方、を自覚しその行き詰まりを打破することである、と。
飯沢氏の言はまさに、①と対応するのではないだろうか。信用性の問題に対して正面から答えてはいないが、非常に良い示唆だと思われる。
追伸>個人的には、信用性を問題にしなければならないような写真は、駄目なんだろうなあという気がする。善し悪しがそこで止まってしまうというのはそれまでの写真なのではないか。例えば、ある写真機の宣伝写真でこういうのがあった。二人の子供が踏切を挟んで立っている。通過する電車の連結部の隙間から、子供が手を振り合っている(→連結部の通路のない電車なので一瞬だけ見える)。この写真は確かに一瞬を切り取るという点では見事だし、子供達の表情においても、お互いが一瞬見えることに対する歓びがストレートに現れてはいる。しかし、これがヤラセである可能性は否定はできまい。疑心暗鬼と言われればそれまでなのだが・・・。