裁判員制と性善説

 閣議決定によると、「人を裁くという重いことは良心に照らしてやりたくないという人もいる。『思想・信条の自由』を侵すことになる」として、国民は思想・良心を理由に裁判員制度の任名を拒否できるようになりそうだ。
 しかしそうすると、思想・良心を理由に拒否する人がほとんどになってしまいそうだ。顔の見えない「市民」をそこまで信頼できるのだろうか。政治・法律は性悪説に基づいて運営されているというのに。

 思想・良心の自由(19条)とは、国家権力が内心の思想に基づく不利益な取り扱いをすることと、特定の思想を強制することができない、ということである。
 そして思想・良心とは、世界観・人生観など個人の人格形成に必要な、若しくはそれに関連のある内面的精神作用である。(憲法上保護される思想の定義について、「内心におけるものの見方ないし考え方の自由」として広く捉える説には賛成し難い)

 とすると、人を裁くことの是非に関する思想は、個人の人格形成に関係あるとはいえず、関係ない議論と言えそうだが・・・?

 それよりもむしろ、この制度が国民に多大な負担を要求してまで必要な制度なのか。この点に関する議論を更に深めることを期待したい。

<最後に、司法改革審議会の報告書から抜粋>
『国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる』

ですって。