報道ステーション開始

古舘「報ステ」成功へのドア回らぬワケ(yahooより)
古館伊知郎氏の新番組、報道ステーションが始まりましたが、早速上記のような事情が表に出てくるあたり、先行き暗い感じですね。実際放送はイマイチに見えます。どうも知性を感じない(←先入観?)。まだ初回ですから、段々よくなるのかもしれませんが・・・。
ついつい放送中久米宏を偲んでしまい、番組見るのもそこそこにいろいろ探してみたら、素晴らしいリンクがいくつかありました。

 リンク
 久米宏論(ジャーナリスト・坂本衛氏のサイトより)←おすすめ
 さようなら久米宏(藤原雄一郎の時事通信より)
 久米さんの新番組を考えるスレ(ネタ/2ch)

私は久米宏が大好きです(↓こんな発言とか)。早く復活しないかな。

「ぼくは、社会党が政権を取ったら、アンチ社会党になりますから。これは間違いないです。共産党が政権取れば、アンチ共産党です。だいたいマスコミが政権と同じところに立ったら、めちゃくちゃですから、その国は。なぜ反自民かというと、政権を取っているからです。それ以外には、理由はないですね」by久米っち(坂本氏のサイトより)

追伸・報道の自由関連の意見>(坂本氏のサイトより引用)
 これ(活字とテレビの報道の自由における違い/筆者注)は、筆者にもちょっと判断がつきかねるところがある。テレビに無制限な自由はありえないというのは、読売新聞の主張通りである。だが、現実に家庭で新聞がどんな読まれ方をしているかといえば、発行部数1000万部というような巨大新聞をトップに全国紙と呼ばれる数紙のなかから、まずどれか選ぶ。場合によりこれに地方紙か経済紙どちらかの2紙というのが一般的なパターンではないか。見方によっては選択支は一つか二つしかない。地方によっては新聞はさらに寡占化が進んでいる。また、活字に無制限の自由があるといっても、1000万部の新聞の言論の自由というのは、よほど慎重に行使されなければならないだろう。

 一方、テレビは東京で最低でも7局が視聴できる。さらに多チャンネル化が進行中で、CATVに加入すれば20局や30局は簡単に見ることができる。直径2〜3メートルのパラボラとチューナーがあれば、100局からのCS放送が受信できる世の中である。いやなら番組を切り替えればよいから、選択支はかなりあることになる。

 とすれば、「新聞は無制限の自由、放送は制限付き自由」という議論は、実態を無視した形式論にならないだろうか。現行の放送法には、政治的公平、報道は事実を曲げないですることといった規定がある。これを外して政治的な自由をなどというつもりは、さらさらない。だが、こうした守るべき精神的規定は残しつつも、テレビの言論の自由をある程度広げる方向を認めてもいいのではないかという気もする。

 たとえば「社説放送」の枠を認めるような方法が考えられないだろうか。現状でも、どうせ「××新聞ニュース」などという新聞を大写しにするだけの放送がまかり通っている(社説を大写しにすれば社説放送と同じ)し、系列による新聞のテレビ支配ははっきりしているのだから。