モリタクの「300万」

今更ながら、「年収300万円で生き抜く経済学/森永卓郎」を読んでみた。まず、間違っても経済学の本ではない。エッセイだ。15分で読める。

▼すごく手落ちもあると思うけども、以下要約
現在、アメリカ式「身分制社会」とヨーロッパ式「個の人生重視の社会」とがある

いま日本はアメリカ式にまっしぐらである

それは即ち、一握りの金持ち身分の権益を拡大すること。そして相対的に取り分の減った大多数の「その他」の身分は割を食う。そして、いわゆる「勝ち組」になることが可能であるかのように喧伝されているが、そんなものは幻想である。

ではどうすべきか

仕事のみではない、他の生き方があるのではないか。

ですって。

▼いいと思ったところ
  多様な人生を堂々と肯定する人は、まだまだあんまりいない。その意味で貴重。結局日本でこのような考えは根付かないようにも思われるが、個人的には、根付いてほしい。

▼だめなところ
  論理性はおざなりにされている(読みやすさを重視したのは分かるが、ならば巻末に事実関係などの補足を入れるなどして、最低限の客観性は確保したほうがよかったのではないか。言ってることはいいと思うのに、これではヨタ話と紙一重)。また、理解に苦しむ記述もある。ex.ブッシュもケネディ世襲議員だ→アメリカ経済は勝者と敗者の較差が極大化している(典型的な詭弁)etc...

▼思うところ
  モリタク)これまでは、会社は全ての社員を出世レースに巻き込むことで、社員に「がんばれば出世できる」「がんばれば会社は認めてくれる」という欺瞞に満ちた観念を植え付けることに成功していた。←会社人間はまだ生息しているか(モリタク)より

そしてその欺瞞は暴かれるに至った。だから、会社以外での生きがいをみつけなさい、とモリタクは言う。

しかし、思うに、偉くなりたい、出世したい、という感情は、①功名心と②他人から認められたい、ということから生じるのではないか。
とすると、仕事以外で、人から認めてもらえる、功名心を満足させる、という活動はどこまであるか。その受け皿の量に限界はないか。という疑問は残る。

反面、仕事人間は悪いことではない、ということは確実に言える。心から自分でそれがしたくてやっているのだから。結局のところ問題は、自分の意思で仕事人間になっているのかどうか、ということだろう。

追伸>仕事人間が増えた方が、会社経営者や株主は喜ぶんでしょう。しかし、仕事人間を量産しようとすることは、あたかも、人権の観念などにつき詳しく義務教育で教えないことで、立法・行政にとって好都合な人材を量産する、現行教育制度と似ている気がする。

▼以下を読んでおけばこの本を確実に15分で読めるリンク集▼
不況の原因(モリタク)
雇用調整より賃金調整を(モリタク)
書評「痛快ビンボー主義」
http://d.hatena.ne.jp/kyamamoto/20040312